独立と交際

個人の立志と国家の立国が同時に存在した——。ある思想史家は明治という時代をそのように評した。福沢諭吉は「日本には政府ありて国民ネーションなし1」と、喝破したが、彼もこのような問題意識に貫かれていた。明治維新によって、天皇を君主として戴いた薩長土肥藩閥政府を組織したが、そのままでは専制政治に過ぎなかった。権力に正統性を与えるためには、天皇の意志だけではなく、国民の承認が必要だった。しかし、先に引いた福沢の言葉のように、日本にはまだ国民は存在していなかった。そのため政府は教育と徴兵によって、強制的に上から国民を創造したのに対し、福沢は同じ教育でも自発的に下から国民を創造しようとした。『文明論之概略』はその方法について論じた政治理論ないし教育理論の書として読むことができる。

昔、封建の時に、大名の家来、江戸の藩邸に住居する者と国邑にある者と、その議論常に齟齬して、同藩の家中殆ど讐敵の如くなりしことあり。これまた人の真面目を顕わさざりし一例なり。これらの弊害は、固より人の智見の進むに従て自から除くべきものとはいえども、これを除くのにもっとも有力なるものは人と人の交際なり。その交際は、あるいは商売にてもまたは学問にても、甚しきは遊芸、酒宴、あるいは公事、訴訟、喧嘩、戦争にても、ただ人と人と相接してその心に思う所を言行に発露するの機会となる者あれば、大に双方の人情を和わらげ、いわゆる両眼を開て他の所長を見るを得べし2

本書を通読して分かることは、人間の蒙を開く手段として、福沢は人間同士の交際を重視していたということである。学問はそれによって益々発展し、慶應義塾の建学はその実践と見ることができる。

元来人類は相交るを以てその性とす。独歩孤立するときはその才智発生するに由なし。家族相集るもいまだ人間の交際を尽すに足らず。世間相交り人民相触れ、その交際いよいよ広くその法いよいよ整うに従て、人情いよいよ和し智識いよいよ開くべし。文明とは英語にてシウィリゼイションという。即ち羅甸語のシウィタスより来りしものにて、国という義なり。故に文明とは、人間交際の次第に改りて良き方に赴く有様を形容したる語にて、野蛮無法の独立に反し、一国の体裁を成すという義なり3

福沢が見るに、文明の進歩の秘訣は交際にある。それは家族ないし一族に留まるあいだは交際と呼ぶに値しない。広く世間に出て、人々と交わらなければならない。ここで肝心なのは、文明とは個人の智徳(智識と道徳)であると同時に、その範疇を超えて、国家の智徳であるということである。ゆえに個人と個人の自由な交際は、国家と国家の自由な交際を促し、個人の独立は国家の独立を促すことになる。立志と立国は相関関係にある。やはり、『文明論之概略』は極めて明治時代の書物なのだ。

本書の第9章「日本文明の由来」の中で、福沢は封建時代の交際における権力偏重を厳しく批判している。人間と人間、あるいは国家と国家の交際において、平等あるいは対等であることを理想としていた。その意味で、彼は自由主義者リベラリストだった4。また福沢は言う。「そもそも文明の自由は他の自由を費して買うべきものにあらず。諸の権義を許し、諸の利益を得せしめ、諸の意見を容れ、諸の力を逞うせしめ、彼我平均の間に存するのみ5」滅私奉公、あるいは自己犠牲を認めない。その意味で現代の「安心安全」を確保するために個人の私権を制限しようとする議論(動き)に対して、強力な批判理論になる可能性がある。その意味で、本書の主題は明治時代を超えた、普遍的な書物である。幕末、明治の時代を生きた武士はこんなにラディカルなことを考えていた。本書の文語体に敬遠しないで(読み慣れると、その端性なリズムに快感を覚える)、今の若者に是非、読んでもらいたい。

自由の気風はただ多事争論の間にありて存するものと知るべし6


  1. 福沢諭吉(松沢弘陽/校注)『文明論之概略岩波書店岩波文庫)、1995年、220-221頁。

  2. 前掲書、21頁。

  3. 前掲書、57頁。

  4. 慶應義塾の学生と教授が互いに「~君」と呼ぶ習慣は、この理想の現れかもしれない。

  5. 前掲書、208頁。

  6. 前掲書、37頁。