beloved

大学に入学した初めの年に、〈基礎文献講読〉という科目を受講した。ゼミナールの形式で、各自が輪番で課題の文献の要約レジュメ寸評コメントを発表するのだが、その最初の文献が、トニ・モリスンの『愛されし者ビラヴド』だった。小説である。これにはいささか当惑した。せっかく、勇んで大学の法学部政治学科に入学したのに、ゼミでわざわざ小説を読まされるとは……。早熟とはほど遠い、普通の大学生に対して、自由主義リベラリズムとは何か? 社会主義ソーシャリズムとは何か? 女性主義フェミニズムとは何か? 人種差別レイシズムとは何か?……法律、経済と関連させて、体系的に教えた方がよかったのではないか。その方が、法学、政治学を専攻する学生の志望に即しているのではないだろうか。最初に、小説などの文学を題材にしては、政治学の輪郭が曖昧になる。政治学と文学のけじめがつかない。学生にしてみれば、法学部に入学したのか、文学部に入学したのか、分からなくなってしまうではないか。政治学を深化するために文学作品を読むのは、学部の基本的なカリキュラムを終えてからでいい。少なくとも、それは政治学の方法のひとつに過ぎない1。政治思想ないし政治理論の研究者には文学趣味を持つ人が多いが、それでも本業の政治学を抛り出しては、同業の政治学者は目も呉れなくなる。相手にされなくなる。政治学者が小説を読むことは、本当は恥ずかしいこと、良心の呵責を感じることなのだ。だからこそ、それがたまたま研究の隘路を打開するとき、本当に画期的、異端的になるのだ。ただし、そのためには政治学の基本的な思考法を身に着けていなければならない。

再び『愛されし者ビラヴド』に話を戻そう。小説の内容はほとんど忘れてしまったが、黒人女性のビラヴドは、最後は怨念によって、メデューサのような姿に変化して、解放奴隷の住む集落を亡霊のように徘徊していたような気がする。所謂、マジックリアリズムというやつで、超現実的な空想を駆使することで、日常に隠蔽された現実/真実を正しく表現しようとする技法、態度、信念である。かつて愛されし者ビラヴドは、どうして、妖怪に姿をやつしたのだろうか?

先日、酒場バーで飲んでいると、そこのマスターに「兼子さんは愛され系だよね」と言われた。その時、私は既視感デジャブを覚えた。ちょうど1週間くらい前に、職場の(元)同僚が異動する私に向かって「兼子さんは愛され系だよね」と同じ言葉を放ったのだ。

「ただ人から愛されるだけの人間の生活は、くだらぬ生活と言わねばならぬ。むしろ、それは危険な生活といってよいのだ。愛される人間は自己に打ち勝って、愛する人間に変わらねばならぬ。愛する人間にだけ不動な確信と安定があるのだ。愛する人間はもはや誰の疑いも許さない。すでにわれとわが身に裏切りを許さぬのだ2」。リルケの愛の概念は世間的な人間関係に留まらず、むしろ、超越的な芸術家の情熱を含んでいるが、私は世の中の結婚の失敗の原因のほとんどは互いに「愛されること」を求めた結果だと思うようになった。しかし、近頃、私のそのような悲劇的な愛の理解は修正を余儀なくされている。

「愛されること」は才能ギフトだと気づいた。それはその人に祝福されている感覚をもたらす。これは芸術家にとって絶対に必要な経験である。キリスト教徒はそれを恩寵グレイスと呼ぶ。畢竟、それは愛なのだ。


  1. 『体験と創作』に代表される、ヴィルヘルム・ディルタイの伝記的研究に端を発していると思われる。研究者は作品を読むことを通じて、対象の主観ないし内面を把握(理解)することを要求される。浪漫主義的な方法である。

  2. ライアー・マリア・リルケ(大山定一/訳)『マルテの手記』新潮社、新潮文庫、1953年、251頁。