クラコフの夜の暗さ

会社から与えられた2日間の休日をもっぱら読書にあてている。疫病のために図書館が休館になので、近頃の私は本とCDをネットで買いあさっている。床にもテーブルにも書籍がうず高く積んである。この積読の山を崩すことが今年の目標である。要らない本は売るか捨てなければならない。そのためには読まなければならない。知の新陳代謝を活発にさせる時が来たのだ。

本を読んでいる最中はたいてい音楽を聞く。読書は活字を通じて、言葉を見聞きするので、声楽だと、どうしても本の言葉が頭に入りにくくなってしまう。その点、声楽に比べて、歌詞のない器楽の方が聞きやすい。読書をしている時、その気分に応じて口にする飲みものを選ぶように(茶、珈琲、酒など、種類は豊富だ)、耳に掛ける音楽も選ぶのである。取り合わせの妙である。茶道にも通じる。

正午に起きて、コーヒーを淹れる。昼食は取らないので、ミルクと砂糖をたっぷり入れる。煙草は吸わない。味覚が麻痺するから。

ハンナ・アレント(阿部齊/訳)『暗い時代の人々』(ちくま学芸文庫、2005年)を読んでいる。学生時代に読んで以来、折に触れて読み直しているのだが、同じ本を二読、三読できるのは、その本がその人にとって大切なものを含んでいるのではないだろうか。アレントと言えば、主著『人間の条件』で展開される、「労働」「仕事」「活動」の概念で有名だが、私はそれ以上に、彼女の「世界」という言葉の使い方の方が重要ではないかと思う(『人間の条件』は当初『世界への愛』という題で書かれた)。彼女は「世界」を「自我エゴ」を超えた実在として見ていた。この点がマルティン・ハイデガージャン=ポール・サルトル、カール・レーヴィットなどの同時代の哲学者と比較するとおもしろいのではないだろうか。そして、彼女の「世界」は哲学にとどまらない。トーマス・マン開高健など、文学に繋げてくれるのである。

暗い時代の人々 (ちくま学芸文庫)

暗い時代の人々 (ちくま学芸文庫)

『暗い時代の人々』を読みながら聞いているのは(この記事を執筆している最中も聞いている)千住明『交響組曲第2番 THOUSAND NESTS』である。『機動戦士Vガンダム』のBGMのために書かれたそれぞれの楽曲を、一組の交響組曲として編集したものである。演奏はポーランドのクラコフ・ラジオ・オーケストラである。

機動戦士Vガンダム』の放送は1993年(東欧革命とソ連解体の記憶が新しい頃である)。監督は富野由悠季。宇宙移民が建国した独裁国家ザンスカール帝国の支配に対して、地球に住む人々が抵抗組織リガ・ミリティア(軍事同盟)を結成、みずからの抵抗の象徴として、Vガンダムを建造し、戦いを挑む——。

という、ガンダムのお馴染みの構図だが、当初、東欧を舞台にした、このアニメの切迫感は尋常ではなかった。当時、私は小学1年生だったが、これが初めてのガンダム体験だった(そのために、富野監督以外のガンダムガンダムではないという偏見が今日まで続いている)。Vガンダムはそれまでのガンダムの先例を破って、試作機ではなく、量産機だったから、何度破壊されても前線に送られる。量産機なので味方のコンビネーションも抜群である。私はこの物語から監督のファシズムに対する抵抗と連帯の意志を感じた。放送終了後、富野監督は重度の鬱病に陥ってしまうし、DVDが発売されても「このDVDを買ってはいけません。見られたものではありません」というコメントを寄せる始末であるが、私はこの作品には、後期富野の思想のエッセンスがたくさん詰まっていると思う。抵抗と連帯。死と生。若者と老人。人工と自然——。のちに富野監督はハンナ・アレントの熱心な読者になるが、この頃からすでに彼女の思想に共通するものを持っていたのだ。

クラコフの夜は、我々が30年前に忘れ去った暗さがあったというのは、比喩でなく現実なのである。

富野由悠季「重い歌を唄う人たちと」

ついでにこれ。


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