われ痛い故にわれ在り

モロイ

モロイ

私がベケットに出会うのはかなり遅かった。たしか30歳を過ぎていたと思う。最初に『名づけえぬもの』を読んだ。小説である。改行ないし改段落をいっさいとらない書き方に、こんな小説の書き方もあるのかと素直に感心した。ジョイスの弟子だと知っていたから、文体上の実験に対して抵抗がなかったのかもしれない(私がサミュエル・ベケットの名前を知ったのは、リチャード・エルマン(宮田恭子/訳)『ジェイムズ・ジョイス伝』(みすず書房、1996年)を通じてである)。次に読んだのは、戯曲『ゴドーを待ちながら』である。ベケットの作品の登場人物はどうしてこんなにみすぼらしいのだろう、と思った。『名づけえぬもの』の主人公には四肢がない。『ゴドー』の主役の二人は乞食である。彼の文学は読んでいて気持ちよくなる類のものではない。しかし、ときどきユーモアを見せてくれる。絶望が深い。私は彼を好ましく思った。

『モロイ』の主人公も松葉杖をついている。片輪である。肉体的、精神的な苦痛を緩和するために、しばしばモルヒネを服用している。苦痛はベケットにとって基本的な感覚である。彼の作品の登場人物は、誰もが苦痛を感じている。そして、主人公の「私」は瞬間的に自分が「モロイ」なのか「モラン」なのか分からなくなる、むしろ、どちらでもよくなってくる。名前が分からなくても不自由しない。ベケットの作品において、名前は不確かなもの、恣意的なもの、頼りにならないものなのだ。それよりも、彼は物との接触を重視する。石をしゃぶる。煙草を吸う。軟膏を塗る。浣腸をする。……など。

こうして書いてみると、苦痛にも快楽がないわけではない、と思うようになってきた。ただし、暗い快楽である。とかく、フランス文学はエピキュアリズムの向きで語られることが多いが、本当は闇の中に光を、醜の中に美を、苦痛の中に快楽を見る文学なのである。おいしい料理を提供して読者を楽しませるのは、文学の定石になっているが、まずい料理にも味はたしかに存在するのである。ベケットはそのことを私に教えてくれた。

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Samuel Beckett

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