高齢者の教育と教養

家に閉じこもっていないで、外に出なさい1

昨日の夕方、小岩のCafe COLORADOでアイスラテを飲みながら、『読売新聞』を開いた。新聞を月極で講読していない私は、定期的に喫茶店に通って、各種日刊紙に目を通すことで情報収集をすることを習慣としているのだが、この日はたまたま『読売新聞』を手に取った。左翼的な(体制批判くらいの意味)論調が欲しければ、『朝日新聞』を読めばいいが(もっとラディカルに批判した記事を読みたければ『東京新聞』を読めばいい。あまり喫茶店に置いていないが、私はファンである。私の思考様式のイデオロギーと一致しているのだろう。講読を検討中である)、その日、私は緊急事態宣言の延長が発令された記事を読みたかったので、普段、体制擁護的で、保守的な論調の新聞がどのような報道をしているのか知りたかったのである。案外、地方紙よりも、全国紙の方が、右-左、保守-進歩など、イデオロギー的に単純ではなく、一枚岩ではない、むしろ、記者の厚みを思い知らされることが多い。結局、私たちが新聞を読む動機は、自身の関心、共感を求めるのではなく、むしろ、人々の多様な意見に目を向け、耳を傾けることにあるのかもしれない。新聞を読んでいると、意外に面白い記事にぶつかるものだ。

前書きが長くなった。冒頭の引用は『読売新聞』の「人生相談」の精神科医 野村総一郎先生の言である。コロナ禍のために長年続けてきた飲食店を今夏に閉める予定であり、この頃は自宅に閉じこもって涙に暮れる日々が多いという、還暦を過ぎた女性へのアドバイスである。臨床医として第一線で活躍している先生の、現下の"stay home"の命令に逆らう発言が痛快である。しかも、保守的とされる『読売新聞』紙上においてである。これだから、新聞は判らない。おもしろい。先生によると、高齢者が健康を維持するために必要なのは、きょういく(今日、行くところ)ときょうよう(今日の用事)なのだそうだ。相談者の女性は根っからの仕事人であり、下手に趣味に手を出すよりも、新しい仕事を見つけなさい、とのこと。

きょういくときょうようはただの語呂合わせではなく、教育と教養の本来の意味に一理、通じているのだろう。自分に絶えず新たな仕掛けをする。それが健康を保つ秘訣であり、また、自己を発展させる方法なのだろう。教育と教養の目的ゴールは自己陶冶である。最初は他人に教えを乞うけれど、最後は自分で自分を育てなければならない。「人生案内」を読んでいて、私の仕掛け(努力と工夫)は何だろう? 私の10年、20年、30年後の職場はどこにあるだろう?とふと、立ち止まって考えた。

私は10年前、ミニコミ紙の記者をしている頃に、当時、防衛医科大学校の教授を務めていた野村先生を取材したことがある。ハードスケジュールを割いて、吹けば飛ぶような新聞記者の取材に親切に応じてくださった。「私と新聞」という題でエッセイも寄稿してくださった。数分間の接見だったが、先生は敢えて(努めて)忙しくされているのではないか?という印象を受けた。

最後に、蛇足かもしれないが、今回のブログの主題に通じるので、私が尊敬するアニメーション監督 富野由悠季御大のメッセージを添える。


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  1. 「人生相談」『読売新聞』2021年5月8日、朝刊。野村総一郎の回答。

コーヒーミルク

二十代半ばで一人暮らしをして以来、毎朝(昼にずれ込むことがあるが)、コーヒーを淹れるのが習慣である。今までコーヒーに入れるミルクは牛乳でなければならないと思い込んでいたのだが、この度、Briteなどの脱脂粉乳を試してみた。すると、意外に使い勝手がよく、しかも味がよいことが分かった。淹れたてのコーヒーが冷めず、しかも水っぽくならないのである。Nestleはよく研究していらっしゃる。同社のBriteによって、私の脱脂粉乳はオイシクナイという偏見は修正を余儀なくされたのであった。

そういえば、小岩のBar Soutsuでジン・アレキサンダーを頼んだ時、割材の牛乳にコーヒーフレッシュを加えていた。引き締まった味のカクテルだった。

人生ゲームに於けるナッシュ均衡

昔、大手出版社で派遣社員をしていた頃、同じ部署で同じく派遣社員として働いていた女の子に「あんた、年収400万円以下でしょ」と馬鹿にされたことがある。今、勤めている会社ではそのような粗野な言葉は聞かれない。なぜなら、ほとんどの同僚は年収400万円以下なのだから。みんな貧しい。でも、社食と住宅補助があるので、なんとか糊口と雨露をしのぐことはできる。こうして社会主義は実現され、人々の境遇は平等になり、互いに気遣い、労わることで、道徳は柔和に洗練され、社会の存在論的、認識論的断絶は解消されたのであった。

自分の給料の低さに思い悩んでいる。今年35歳、手取り21万円。東京 築地の出版社で派遣社員をしていた頃の方が年収が多いではないか。しかも、あの頃は本好き、仕事好きで、刺激的な同僚が社内、社外にごろごろいた。私と同じ流れ者でありながら、彼/彼女たちは自分の関心と社会(会社)の関心を巧みに組み合わせながら、他人に余計な干渉をすることなく、自分の仕事を精力的にこなしていた。——回顧はここまでにしておこう。愚痴っぽくなってきた。

未来の話をしたい。私には次の選択肢がある。

  • 今の会社に勤める。1年後、介護福祉士の資格を取得する。
  • 転職する。障害者の就労支援に携わる。
  • 転職する。ただし、介護福祉士の資格を取得するまで待つ。
  • 転職する。ただし、社会福祉士の資格を取得するまで待つ。
  • 収入と名声ほしさに文筆に手を染める。副業として、本業の勤め先の確定申告に記載する。
  • 収入と名声ほしさに文筆に手を染める。個人事業主として開業する。
  • 株に手を出す。

ナッシュ均衡、あるいはパレート最適を探りたいところだが、ゲーム理論に対する理解が未熟なので、もう少し素朴に考えたい。

資格を取得する点で言えば、給料は低くても、今の会社に勤め続けるアドバンテージはある。介護福祉士ケア・ワーカーの資格を取得するためには、専門学校以外のルートだと現場で最低3年働く必要がある。この資格を取得しても、現場の介護職に対して大して利益はないけれど(雇用主にサービス提供責任者として重宝される。あと、資格手当が付く程度か)、私の場合、将来、フリーランスになった時に食いっぱぐれないという目算がある。生活破綻者にならないで済む。親も息子が介護のプロなので安心するだろう。そして何よりも、3年間、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び獲得した資格なので自信になる。我慢と根性で獲得した資格である。

仕事の内容を老人介護以外にも拡げたいので、社会福祉士ソーシャル・ワーカーの資格を取得したいと思っている。これは大学、専門学校等で単位を取得する必要があるので、実質上、金で買う資格である。業務独占ではない(行政書士司法書士、弁護士でも成年後見人を立てることができる)、一種の名称独占の資格であるが、私はこの資格を持つことによって、大学や専門学校で教えたり、スラムに潜入してルポルタージュを書くのに役立つのではないかと思案している。そのためには本業の文士ライター稼業に精を出さなければいけないけれども。

政府と日銀のゼロ金利政策のおかげで、貯蓄をしても、ほとんど利子がつかない。積極的に資産を構築するためには株を購入する必要がある。私の場合、転売して利ザヤで稼ぐよりも、好きな会社、応援したい会社に投資して、僅かな配当金を貰う方が性に合っているのかもしれない。ただ稼ぐために株を購入するのではなく、その会社を深く知りたいから株を購入するのだ。近日、みずほ銀行みずほ証券に口座を開設するつもりだ。

私の人生のナッシュ均衡はいかに——。

給与明細

4月の給与明細を見ると、手取り約21万円。なんだこれ。先月は夜勤に入っていないので、多少少なくても仕方ないのかもしれないが、それでも新卒並みの給料ではないか。仕事があるだけ恵まれているご時世なのかもしれないが、これではとても将来の生活の見通しを立てることができない。私は清貧ではない。ミニマリストではない。相当の生活の質量を要求する。1986年に生まれた私は、バブル時代のエートスを受け継いだブルジョアの子弟なのだ。

もう一度言う。手取り21万円……。どこかのお兄さんは「このままでいいです」と言ったが、いいわけないでしょ! これではアルバイト、派遣社員の方がたくさん稼いでいるかもしれないではないか。

働かなければならない。鬱で塞いでいる場合ではない。酒に酔っている場合ではない。勉強をすること、仕事をすることが、私ができる唯一の打開策である。

最後に、EAGLES"Desperado"を聴く。


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私益と公益の弁証法

特別養護老人ホームと有料老人ホーム

異動して2ヶ月が過ぎようとしている。

以前は特別養護老人ホームに勤めていたが、私はそこで慈善事業に組み込まれているように感じていた。コロナ禍でも、緊急事態宣言下でも、時短も休業もすることなく、過酷な労働条件の下、私たちは必死になって働いた。社会正義の実現に貢献しているかもしれないが、都合よく社会に使役されているのではないかという感覚があった。

今は異動して、有料老人ホームに勤めている。特別養護老人ホームと同じ社会福祉法人が経営しているにも関わらず、私はそこで明確に老人ビジネスに関与していると感じている。シフトの時間によっては、ワンオペ1で回さなければならないので苦しいが、利益を出すためにはこれくらいの苦労は致し方ないかと観念しながらやっている。今の所、会社の利益と私の利益は一致している。個人の利益のためならば、堪えがたきことも堪えられるのだ。

社会主義 VS 資本主義

私は多分、社会福祉法人よりも、公益財団法人よりも、NPOよりも、株式会社の方が好きなのだろう。下手に慈善事業の看板を掲げるよりも、Microsoftのように、社員に自社の株を握らせて、自分の業績と会社の業績(それは株価に反映される)を一致させて、モーレツに働く方が生産的で、正直だと思う。そして、会社を越えた社会の利益と個人の利益が一致し、調和することが理想なのだろう。

最後は弁証法が勝利するのかもしれない。


  1. 一人で職場を切り盛りすること。

立ち上る自信

私は34歳である。中年である。しかし、年甲斐もなく、新しい職場では、(年齢、役職を含めて)目上の人達から、ことごとく「兼子くん」と呼ばれている。まるで子供扱いではないか、と憤りたくなる時もあるが、実際、見た目も、気持ちも若いのだろう。男は三十代になると、普通、結婚したり、家を購入したりして、身を固めるけれど(それはほとんど終身雇用制を前提にしている)、私の場合、絶えず新しいことに挑戦している。自分の才能、可能性を試している。そして、独立自尊の気概がある。そのためには結婚を目的にしてはいられない、というのが実情ではないか(恋愛はするに越したことはないが)。私は職場の同僚、行きつけの酒場バー支配人マスターから、ピーターパン症候群シンドロームと、からかいながら言われたが、青春を謳歌し続けるには、相当の犠牲と覚悟が必要なのだ。

職場が、東京都足立区から千葉県松戸市に替わって、1ヶ月半が経つが、ようやく慣れてきた。私よりも10歳以上年下の同僚はドライブに誘ってくれるし(東京と違って、千葉では自動車通勤が多いのだ)、還暦を過ぎた同僚は立ち飲み、あるいは宅飲みに誘ってくれる。皆、それぞれ事情があって、好きでもない介護の仕事をしているので、流れものに優しいのかもしれない。しかし、それ以上に、人間関係よりも大切なことは、仕事をしている最中に「これは行ける」という感触を掴んだことだ。それは客観的な仕事ぶり、仕事の成果に現れると同時に、それを見つめる顧客の、上司の、同僚の眼差しに、確かに、静かに現れる。そして、その自信は、私の肩から、足どりから、口吻から如実に現れるのだろう。「私はここでやっていける」と。

between Politician and Economist

経済学者についての伝記を読んでいる。

特にフリードリヒ・ハイエクの『隷従への道』は、コロナ禍を契機に、市民社会に対する行政の恣意的な権力の行使に憤慨している最中に読んだので、思い入れが深い。しかも本書は、かつて政治学を断念した私の関心を再び政治学に向かわせてくれた。その点、私はハイエクに恩義があるのだ。

図書館で経済学の入門書を借りてきて、仕事の合間と就寝の前に少しずつ読んでいる。

特に近代経済学の核であるゲーム理論が難しい。実際に分析の道具として使うためには、本腰を入れて数学を勉強しなければならない(そして、Rなどのプログラミングも)。ゲーム理論の礎を築いたのは、ジョン・フォン・ノイマンオスカー・モルゲンシュテルン、そして、ジョン・ナッシュであり、特にナッシュ均衡点を導き出すことは、数学の問題を解くと同時に、現実世界の問題を解くことを意味する。人間は利己的に思考し、行動しているように見えるが、注意深く観察すると、利他的に思考し、行動していると分かる瞬間である。5年前、ナッシュの評伝『ビューティフル・マインド』を読んだ時の感動が蘇った。

大学に入学すると同時に、私は「文系」になったが、その差別は間違いであると気付く。数学の理解なしに数学者の評伝は書けない。文学を書くためには、文学以外のことも学ばなくてはならない。フランス文学の講義の最中に中島健蔵は言った。「君、文学だけに凝り固まっていては駄目だぜ1


  1. 辻邦生『のちの思いに』日本経済新聞社、1999年、32頁。