卒アル

酒が飲めなくなった。

一昨日の夜、ワイン 500ml、ウイスキー ショットグラス2杯を飲んだのだが、翌朝、ひどい二日酔いに苦しめられた。嘔吐はしなかったのだが、眩暈、立ちくらみ、顔面蒼白、下痢……。アルコールを代謝した時の副産物である、アセトアルデヒドの仕業だと思うけど、身体が酒を受け付けなくなっていることは明白だった。

肝臓、腎臓、膵臓、小腸、大腸、脳……。29歳の頃からほぼ毎日酒を飲み続けてきたけれど、体中の様々な臓器がくたびれてしまったのだろう。昨年の健康診断では尿酸値が高いことが分かり、しばしば左足の母指球が痛むことがあった。私も遂に自分の健康に不安を抱える中年の仲間入りを果たしたのだ。

私の『ドリンキング・ライフ1』はこのまま終ってしまうのだろうか。それとも、「酒は人生の妙味」と称して、健康が許すかぎり、チビチビ嗜むのだろうか。おそらく、後者である。

ただし、
酒は毎日飲まない。


  1. ピート・ハミル(高見浩/訳)『ドリンキング・ライフ』新潮社、1999年。

僕は眠らない

東京と千葉の二重生活を決意したのに、近頃は夢の中でも会社のナース・コールが鳴りひびく……。睡眠中も私は介護しているのだ。資本と労働による生活の一元化ないし全体主義化が進行している。自由主義多元主義を標榜する私にとって、これは由々しき事態である。

今まで私は睡眠にこだわってきた。確かに、鬱病躁鬱病分裂病など、主要な精神疾患を診断する分水嶺は睡眠時間にある。これらが発病するとき、睡眠時間が極端に短くなるのだ。「最近、眠れていますか?」と、精神科の問診で必ず訊かれる。睡眠時間の延長が図られる。そのために処方される抗精神病薬の効果が鎮静、催眠であるのは理屈に適っているのだ1。私はこの薬を薬学における最大の発明だと考えている。(単極性)鬱病の治療に使われる、気分を持ち上げてハイにさせる抗鬱薬は、私から見れば傍流に過ぎない2

どうして私は睡眠にこだわるのだろうか。単純に眠るのが好きなのかもしれない。何も考えずに、無心になって微睡まどろむのは気持ちいいものである。考える人がエライという風潮が、兎角、インテリのみならず、世間一般にも拡がっているが、とんでもないことである。考えるから不安になるのだ。平安になりたければ、平和になりたければ、考えない方がいい。

私は今まで眠るために酒を飲んできた。ウイスキーやジンなどの蒸留酒を飲んできたのはそのためだ。一気に血中アルコール濃度を上げてくれるのだ。しかし、眠るために飲む酒ほど不味いものはない。しかも、アルコールは覚醒と鎮静を同時にもたらすから、深酒しても眠れる保証はどこにもない。混濁した意識が不安気に心象風景を彷徨うのだ……。

これからはただ、気持ちよくなるために酒を飲みたい。

躁鬱と不眠は私の宿痾である。しかし、裏を返せば、もともとショートスリーパーの体質なのだろう。「気を付けて、目を覚ましていなさい3」。他人よりも覚めている時間が多いことを感謝しつつ(その分、苦しみも多いが)、人として、短い一生を送りたいと思う。


  1. 人間はレム睡眠とノンレム睡眠の繰り返しによって、思考を整理したり、不快な記憶を消去することが知られている。眠りは休養と発育、そして、ストレス解消の主要な手段なのだ。精神医学は伝統的に、催眠術、夢診断、持続睡眠療法など、睡眠を治療の方法として洗練させてきた。医者から見れば、覚醒・意識は患者のポジであるが、睡眠・無意識は患者のネガである。

  2. そのため、抗鬱薬の副作用として不眠が挙げられる。

  3. 『マルコによる福音書』13章33節。

芸術家一族

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私が吉行淳之介の名を知ったのは、NHK連続テレビ小説あぐり』がきっかけである。ドラマの登場人物は〈吉行〉ではなく〈望月〉とされ、あくまでもフィクションであることが強調されているけれど、原作は吉行あぐりの自伝『梅桃ゆすらうめが実るとき』なので、当時の吉行一家の軌跡を追体験することができる。

放送当時、私は小学6年生。野村萬斎が扮するエイスケさんのコミカルで奇矯な振る舞いを、毎回、楽しみに見ていた。私の人格形成に少なからぬ影響を与えたと言っていい。それは今見ても胸に来るものがある。父 エイスケと、子 淳之介の問答の場面。


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「パパ、今日、安吉くんが来たんだ。これから新潟に行くって」

「そうか」

「その前にパパに訊きたいことがあるって」

「訊きたいことって?」

「僕たちが大人になる時代のことだけど、その頃は人間の手なんか使わないで、機械が寺や神社を作るようになるんじゃないかって。そのとき、宮大工はどうなるの? いなくなるの?」

「いなくならないよ」

「本当!?」

「淳、どんなに世の中が便利になっても、人間にしかできないことが必ずあるんだ。どんなに優れた機械でも、人間の前には勝てない。人間はそれくらい素晴らしいんだ。そう、安吉くんに伝えてくれ」

「分かった。手紙に書くよ」

今のAIなどをもてはやす世相を一蹴する答えである。AI、すなわち、人工知能などはコンピューターを発明した頃からずっと研究してきたテーマであり、今更、新しがる、有難がることではないだろう。むしろ、私たちはそれを開発、運用しつつも、それで代替することができない、人間の仕事とは何か。人間の本質とは何か。この古くて新しい問題を追究するべきだろう。

父 エイスケ(小説家)、母 あぐり(美容師)、長男 淳之介(小説家)、長女 和子(女優)、次女 理恵(詩人、小説家)。吉行家は芸術家一族である。

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村松友視『淳之介流』を読了。現在、活躍中の文士の中で、私が尊敬しているのは、村松友視嵐山光三郎の両氏であり、小説はもとより、評伝にも健筆を揮われている。私が理想、模範としている仕事のスタイルである。

本書の初版は2007年。当時は日本でナショナリズムが席巻した時期であり、白洲次郎などのアメリカ(マッカーサー)に対して、歯に衣着せぬ物言いをする、強くて、分かりやすい男性像がもてはやされた。本書のプランは吉行淳之介が逝去した頃から静かに進められたらしいが、作者が時代の空気に堪りかねて、ようやく実現した運びである。村松友視によれば、吉行淳之介は「ぐにゃぐにゃ根性」の持主だそうだ。一見、暖簾に袖押しの体でも、自分の要求を押し通す術をわきまえていたのだろう。戦時中、文弱と蔑された文士のしたたかな生き方がそこにある。病気、貧乏、恋愛——文士の三重苦と宇野浩二は言ったが、それによって文士は鍛えられるのだ。

本書の執筆、刊行は、村松友視吉行淳之介と交わした「やわらかい約束」だったのだろう。それが「かたい約束」に変わるとき、私たちは人間の本質を垣間見るのだ。

作家と編集者は、五分と五分、書くプロと書かせるプロだ……これは吉行淳之介の言葉だが、私も編集者としてはその自負をもっていた。しかし、会社をやめて同じ作家の端くれになってみれば、吉行淳之介はもちろん雲の上にかすむ存在である。編集者当時の仕事の電話のように、気軽に電話に向かうことなどできるものではない……私は、初めて吉行邸をおとずれて門の内の吉行淳之介の肌合いを模索していたときのような緊張感につつまれた。

ある意味、それは懐かしい感覚だったが、このまま没交渉になるのも寂しい気分があった。それが小さい悩みとなって生じたのだが、しだいにふくらんで飽和状態となり、その風船がはじけとぶ寸前になった。そのとき、卓上の電話が鳴り耳にあてると、
「ヨシユキだけどね、会社やめても電話かけてきていいんだぜ」

なつかしい野太い声がしてから、例のフッフッフといういたずらっぽい笑い声がひびいた。すべてお見通しか……やっぱり、八丁堀のダンナはレベルがちがう、これじゃあ女にも男にも、もてる・・・はずだと感服した1

私も何人かの人と「やわらかい約束」を交わしているから、この感覚は痛いほど分かるのだ。


  1. 村松友視『淳之介流:やわらかい約束』河出書房新社、2007年、192頁。

功利主義的選択

夜勤明け1日目

不眠、抑鬱、胃弱……その他、名状すべからざる不快な症状が続くので、今月末まで禁酒することにした。そして、その代りに抗精神病薬を規則正しく飲むことに決めた。

私が酒を飲む理由のひとつに「今日も眠れないのではないか」という恐怖があるが、そもそも酒は眠るための飲み物としては神経を覚醒、興奮させるので、甚だ不適切であり、早朝、寝不足、宿酔に苦しみながら、駅まで徒歩20分掛けるのが苦痛に思えてきた。しかも胃はムカムカ、腸はグルグルして、たえず下痢の不安と闘わなければならない。酒を飲む快楽よりも、不快の方が増大してきたので禁酒する——。極めて功利主義的な選択である。

現在、午後5時半。黄昏たそがれに飲むウイスキーは最高に美味だと想像しながら、私は甘いミルク・コーヒーを啜るのだった。

内村鑑三の経験主義

内村鑑三』の初版は1953年に刊行された。森有正がフランスに留学したのは1950年だが、本書の「解説」によると、それよりも前に書かれたものらしい。フランス留学が、現地に留まるために大学教授の職を辞して、生活を続けたことが、彼に自由な、個性的ユニークな思索を促し、『バビロンの流れのほとりにて』、『遥かなノートル・ダム』などの代表的な作品を記す契機になったことは間違いない。それ以前の著作は、『パスカル』、『ドストエーフスキー覚書』など、先達の思想家についての研究書が主であり、本書もその一つに数えられるが、通読すると分かるように、西洋に行く前後で、彼の思想に断絶がある訳ではない。むしろ、その継続が認められるのである。「約30年前に書いたこの『内村鑑三』を見ると一つにはこの文章と現在の私の「思想」との距離が大きいことといま一つには、私の「心」の秩序が年月の距りにもかかわらずどんなに同一であるかということとに驚くのである1

忌憚なく述べてしまうと、本書の前半は読むべき所が少ない。文章が上滑りしていて、書いている本人が自らの文章を信じていないのではないか。キリスト教徒の歓心を買おうとしているのではないかと疑いたくなる。

しかし、第2章「絶望から歓喜へ」第1節「復活と永生への確信」を境に文章は熱を帯びていく。ああ、森有正を読んでいるな、という気持ちになる。内村鑑三の娘 ルツ子の死について述べた箇所である。彼女は「モー往きます」と言って亡くなった。「死にます」でも、「えます」でもない。彼女の最後の言葉に、内村は魂の不滅を確信した。魂の実在と不滅——プラトンとキリストが肯定し、マルクスニーチェが否定したこの観念が正しいのか、今の私には分からない。しかし、娘の死、という事実が内村鑑三森有正を引き合わせたように思われる。戦前、森有正も一人の娘を亡くしている。娘の死——この出来事が彼等の転回を促し、悲しみと慰めを教えた。

内村鑑三は「聖書を、信条としてではなく、自己の実験によって承認しうる事実として解する2」と、森有正は指摘する。渡仏など、表面的な生活の変化を超えて、彼の思想を一貫して表現する言葉は他にない。「実験」を「経験」に置き換えれば、後年の『遥かなノートル・ダム』に結実される彼の思想の萌芽が確認できるだろう。因習と教条から自由になることが彼等の生涯の課題だったのかもしれない。


  1. 森有正内村鑑三講談社講談社学術文庫、1976年、3頁。

  2. 同上、64頁。

都内亡命 1

仕事を片づけると、私は階下に降りて、「これからドライブに行く体力は残っているかい?」と、同僚のNくんに声をかけた。

「いいですよ。夜のドライブは好きですから。でも、これから残業をしなければならないので、先に車のキーを渡すので車内で待っていてください。煙草も吸えるので快適ですよ」

1時間後、Nくんは駐車場に現れた。彼の愛車、三菱 ミニカトッポのエンジンに火を入れる。時刻は21時。松戸の田園地帯を走り、江戸川を越えて葛飾に入ると、荒川沿いの四ツ木ジャンクションで首都高に乗り込む。ミニカトッポは90年代に生産された軽自動車なので、時速100km位を維持して、車体を労わりつつ、夜の首都高を駆け抜ける。右手に東京に林立するビルディングの夜景が見える。

「これが東京の生活だぜ!」

私は助手席でラッキー・ストライクを一喫しながら叫んだ。


緊急事態宣言下でも私の生活は大して変わらない。労働、読書、飲酒……この繰り返しである。しかし、本当にこの繰り返しが続くと、具合が悪くなってしまう。もっと直截に言うと、鬱になってしまうので、つねに風穴を開ける機会を狙っている。執筆はその手段の一つであり1、遊びもそのための手段の一つである。健康を維持するために目的と手段は合一している。

相変わらず、経済学の勉強を続けているが、その方の理論書以外にも、小説、評伝を読んでいる自分に気づく。その一つに中村真一郎の小説 四重奏『陽のあたる地獄』が挙げられる。

陽のあたる地獄

陽のあたる地獄

経済学者の〈僕〉、(元)天才少年ピアニスト〈K〉などの男性の登場人物のほとんどは、程度の差はあれ、作者 中村真一郎の分身のように読める。そして、彼らと接触し、関係を持つ〈ジャンヌ〉や〈奥様〉などの数々の女性は、現実に中村真一郎が愛した女性たちの姿を投影しているのだろう。本人は激しく抵抗するかもしれないが(あるいは渋々認めるかもしれないが)、私小説作家に特有の露悪趣味、露出趣味が覗われる2。その意味で、本書の帯文が宣伝するとおり、現代日本文学が到達しえたポルノグラフィなのだろう。

(元)天才ピアニスト〈K〉は、南仏での転落事故がもとで、指を損傷し、その後のピアニストとしての経歴、生命を絶たれることになる。彼の天才の輝きは失われ、急激に老けて中年のようになり、事故の時に脳を損傷したことも相まって、白痴のようになってしまった——。この描写は30代後半に精神を病み、入院、薬物療法と電気痙攣療法を余儀なくされた作者の経験を投影していると思われる。彼は随筆『テラスに立つ少年』の中で、定期的に神経症の発作に襲われ、そのたびに文体が崩壊してしまうので、書くことで、また自分を一から作り直さなければならない、と苦笑いしながら告白している。「あのウィンブルドンで優勝した選手の小指は欠けていたのではなかったか」障碍ハンディキャップがあっても、欠点があっても、それでも続けることが大事なのかもしれない。

小説『雲のゆき来』の一節。「私には女優の才能がないことに気づいてしまったんです」と手紙を寄こした、国際女優〈楊〉に対し、小説家の〈私〉は次のように答えた。

「才能があるかないかは、最後までやってみなければ分からないではないか」

何度も自殺衝動に襲われながらも、中村真一郎は最後まで生ききった。享年79歳。


  1. 文章を書く行為は本能的に繰り返しを拒否し、絶えず新しい対象を求め、新しい方法を試みている。これがルーティン化を求められる労働との本質的な違いである。

  2. 中村真一郎の小説を読む主要な動機として挙げられるのは〈怖いもの見たさ〉である。全体小説を書く、すなわち、社会全体を描き、批判するために中村真一郎は詩人ではなく、小説家になったが、同時に彼は自分の人生を材料に小説を書けることに気づいていた。「肉を斬らせて骨を断つ」と彼は言っている。これは詩人ではなく、小説家にしかできないことだった。晩年の彼は田山花袋を評価していた。