晩餐

厚生労働省でひと仕事終えると、竹橋で働いている友達と合流した。近頃、私がブログで気弱なことを書いているので、心配してイッパイ付き合ってくれるというのだ。生きていれば、特に一芸に生きている人間は、時に自信を失くす時がある。駆け出しの頃がまさにそうで、世間の毀誉褒貶と、自身の絶望/希望の連鎖に打ち克つには、手と足を動かすこと、自分の才能を信じること、そして、友達を大切にする他にないのだ。

竹橋から小岩に移動すると、〆にラーメンを食べることになった。名店 若竹の暖簾をくぐる。煮卵とワンタン、牛筋煮込みを頼む。旨い。その後、明日、朝食を食べないでしょう、ということで、塩スタミナラーメンの特盛を頼み、二人で分かち合った。晩餐と呼ぶにふさわしい夜だった。

ramendb.supleks.jp

電子書籍

紙の本を中心とする本格的な出版社は作れなくても、電子書籍を中心にすれば可能なのではないか、という思いがよぎる。Kindleならばそれができるし、少部数・低予算のオンデマンド印刷にも対応している。

電子書籍の標準的なフォーマットのEPUBならば、少しcssを覚えれば扱えるので、学習の障壁が低い。InDesignなどと違って、基本的にテキストデータで作業が完結する所がよい。 \LaTeXで培った組版への関心と、テキストベースの執筆・編集方法を両方実現することができる1

そして、最後に肝心なのは、自分が文学者ライターとして作品を書くことである。本当の自信、本当の満足はその他の事では得ることはできない。編集者ジャーナリストとして、他人の作品の完成を支援するのは楽しいし、出版に携わる者の醍醐味であるが、私が自身を賭して書くことに比べれば二の次の事に過ぎないのである。


  1. 私はもうWordを使えない身体になってしまった。

聖イグナチオ教会

昨日、四ツ谷の聖イグナチオ教会に行った。あいにく、用事があり、夕の礼拝は出られなかったが、聖堂には私の他に黙想をしている人の姿を見かけた。

この頃、傷つくことが多くあり、明日の生活はどうしよう?と呆然としてしまうことが屡々である。聖書の行く当てのない労働者はたらきびとの譬えは紛れもない私自身の姿だ。

「主よ。この世に居場所を持たない私を憐み、世界から救い出してください」

聖イグナチオ教会 聖堂

キリスト教出版の可能性

前回、キリスト教文学の志望とその可能性について書いたが、今度は出版の可能性について考えてみたい。

将来、個人事業主として独立した後、私は一種の編集プロダクションの設立を考えている。雑誌、書籍、電子書籍の発行を主な事業とするが、企業の広報の請負もやる。自分が今まで培ってきた知見、経験を存分に生かすことができるだろう。

そこで出てきたのが、キリスト教出版社の設立の可能性である。個人の編集企画はやがて、出版社に成長する。一人でやるかチームでやるか悩む所であるが、出版部門は私一人の責任でやる方が潔いかもしれない。広報(広告)部門は軌道に乗った後は、できれば誰かに任せたい所である。

キリスト者ないしキリスト教会は一般的に精神的なものを尊ぶと思われがちだが、実際にはパンとぶどう酒という肉体的なものを志向する個人と社会の集まりである。私はそこに信頼を置いているのだが、これは出版にも言えて、キリスト教徒は基本的に紙の書籍と雑誌を大事にしている。出版を通じて、個人と社会の才能タラントをいかに伸ばすか。この頃はそんなことばかり考えている。

キリスト教文学の可能性

もう一度、小説家を目指してみないか。朝、総武線の揺れる車内で本を読みながらふと思った。

もし、私が腰を据えて、物を書くとしたら、キリスト教文学がいい。私が今まで勉強してきた聖書の知識や、教会の活動の経験などがすべて使えるからだ。

「物書きになりたければ、専門を持たなければ駄目だ」私が今の会社に就職した時に上司がそのようにアドバイスを呉れたが、私はそれは凡人の言として軽く受け止めていた。しかし、己が凡人だと悟った今、この忠告は真面目に実行する必要がある。

「立教をあなたの人生の柱に」。私の母校のスローガンだが、もう少し精確に解き明かせば「キリスト教をあなたの人生の柱に」である。私の人生の中心には主イエス・キリストの福音が鳴り響いているが、ようやく仕事の中心にまで響き渡り始めた。仕事と人生が福音に満たされているということは、キリストの御言葉と御業を世界に伝える証人あかしびとになることを意味する。

とまれ、新聞記者ジャーナリストを引退した後は、キリスト教文学者クリスチャンライターとして身を立てたいこの頃である。

転回

われ汝の行為おこないを知る、汝は生くる名あれど死にたる者なり。なんぢ目を覚し、殆ど死なんとするのこりのものを堅うせよ。

——『ヨハネの黙示録』

個人事業主として独立したら、今よりも遥かに筆力を上げなければならないのではないか。新聞記者ジャーナリストを経験して、とりあえず取材力と企画力は付いたが、筆力は明らかに衰えを見せている。少なくとも散漫になっている。書くことそのものに一所懸命になる、文学者ライターとしての自分を取り戻す、初心に帰るべき日が来るのではないか。これもまた、悔い改めの一つの過程である。

新聞

昨日、取材を1件終える。通常の取材よりもだいぶ手が込んでいるが、業界新聞の記者ならば、時にこうした手続きを踏む必要があるだろう。

今朝は新聞について少し考えてみたいと思う。

衆知のとおり、新聞は斜陽産業である。発行部数は1997年をピークにして、その後、右肩下がりに減少を続けている。私の所属する業界新聞も例外ではなく、ここでは部数を公表できないが、厳しい状況が続いている。

さながら、殿しんがりをしているような気分である。

しかし、新聞はビジネスモデルがハッキリしている。広告と購読。この二つに尽きる。この点については、ウェブは実にあやふやで、無料と購読の狭間を往ったり来たりしている。広告は近年、過剰な露出と誘導のために、ビジネスモデルが崩れつつある。

読者にとっても記者にとっても、新聞はまだまだ信頼に値するメディアのはずだが、その一方、読まれていない、必要とされていない、というのは作り手として寂しい限りである。

けれども、記者/編集者にとって、新聞は寄らば大樹の陰、背後に用紙と輪転機を控えているので、実に仕事がしやすいのである。つまり、取材先の信用を勝ち取りやすいのである。この点、ウェブは移ろいやすく、比較の対象にならない。

なので、新聞記者が取材先で歓待され、ちやほやされたら、それは当人の魅力ではなく、新聞の魅力であると知れ。また、懇親会で人々が新聞記者に次々に挨拶に来る時は、当人のフェロモンに惹き寄せられたのではなく、新聞の紙とインクの匂いを嗅ぎに来たのである。

ふいに『ヨハネ福音書』の一節を思い出した。「世もし汝らを憎まば、汝等より先に我を憎みたることを知れ」。世論が新聞記者を憎むならば、新聞記者よりも先に新聞を憎むことを知れ。——だんだん訳が分からなくなってきた。

それはともかく、しばらく新聞記者であることの幸福さいわいを噛みしめたいのである。